私はあなたの言葉が好きでした。
「常に正しい道を選べ」
それは口癖というわけではありませんでしたが、彼を構成する考え方の一部のようでした。
この言葉を耳にしたのは、一緒に過ごしてきた短い期間の中で、二回。
一度目は、彼の息子が、苦手な歌会に誘われて行くかどうかを迷っているとき。
二度目は、彼の兄弟が、高貴な人に嫌味を言われ、そのことを父親に告げ口しようか考えているとき。
それらは日常生活の中では些細なことのようでしたが、彼は、他は与えず、ただこの言葉だけを静かに、冷静に、しかし信念を持った様子で、思い悩む相手に対して口にするのでした。
言われた側は、神妙な面持ちで考え込みます。きっと重たい一言に感じるのでしょう。
その人たちに答えが出たのかどうかは、私には分かりません。
私は、「正しい道を選べ」と言う彼が好きでした。
いつも微笑していて、余裕があり、静かで、少し気怠そうで、けれど奥底では煮えたぎる情熱を持っていて、常に気を配り、周囲のことをしっかりと見ている。
果たして私が十年後に、こんな強さと美しさを持つことはできるのだろうかと疑問に思ってしまうほど。
強い存在感と信頼と凛々しさ。
まるで貴い獣のようでした。
彼は、彼自身が正しいのではなく、正しいことを知っている人なのだと思います。
悩める人間に放つ「正しい道を選べ」という一言は、答えではありません。
正しい道が何かを提示するわけでもありません。
彼は、相手に考えさせ、道を自由に選ばせるのです。
私は、彼のその態度が好きでした。踏み込まず、離れすぎず、相手を大切に思うその心が。
人に正しさを与えるのではなく、選ばせる彼が。
私が彼に抱いていたのは、恋愛感情とは、たぶん違うのだと思います。
それは尊敬に近くて、私には彼をおそれていた節がありました。
彼は少し鋭い空気を持っていたので近寄りがたく、私のような人間が彼に触れてはいけないような気もしていました。
彼がそれを少し悲しんでいたのを知っているけれど、私もまた、彼の言うとおり「正しい道」を選びたかったのかもしれません。
私は彼に秘密を持った。
未来という秘密を持った。
でも秘密を隠し通すことが正しさなのかも分かりません。
私には、彼に訊きたいことがあります。
私の選んだ道は正しかったのでしょうか?
私は最後に、あなたに真実を伝えてしまった。
あなたにとって残酷な未来を伝えてしまった。
未来を教えるなどという、あってはならないことをしてしまったのです。
それでもあなたは穏やかに笑っていた。
私はただ悲しくて悔しかった。
あなたという正しさがこの世から失われてしまうと思うと。
やりきれなかった。
いつまでもあなたの正しさを見ていたいのに。
あなたのような人がこの世界には必要なのに。
それでもあなたは穏やかに笑っていた。
私を不安にさせないためでしょう。
それもまた、私には、正しいあなたの道だった。
私の選んだ道は正しかったのでしょうか?
私はあなたに今でも訊きたい。
あなたは今どこにいるのでしょうか。
海の底?
空の上?
きっとあなたはあなたの正しさを選び、そこに行き着いたのでしょう。
私はあなたに今でも訊きたい。
私の選んだ道は正しかったのでしょうか?